家前の大木の前を通りがかれば蝉の声にようやく気付く。
いつの間にかすっかり夏になってしまったのだな。
少なからぬ熱と湿気を含んだ空気を吸い込んで、鈴鹿三祇郎はそう胸中でつぶやいた。


『紅焔銀雨』


 世界は少しだけ遠い。物理的にではなく、感覚的に。
そう感じ始めたのはいつからだったか。テレビや新聞で見る世界が、人々の言う世界だけが
果たしてこの世界なのだろうか。この世界には自分達には見えない本当の姿が
あるのではないか、いつしか心を占めていたそんな漠然とした感覚があるいは壁のように
自らの認識を妨げているのかもしれない。三祇郎はそんな風に考えていた。

それは世界を覆う結界のせいなのだと、母はよく言っていた。
平たく言えば、それはどうやら自分達の持っている常識だけが世界を測る物差しではなく、
常識という価値観を飛びぬけたものも世界には存在するということらしい。
母の言うことはどれもひどく突拍子も無いことに聞こえて理解するのは難しかったが、
それでも三祇郎は母を疑ったことは一度もなかった。

何故なら、母という人物自体が彼女の言葉を体現していたからだ。



 「ただいま」

「おかえりなさい。早かったのね」

玄関を開けるとすぐにいらえがあった。慌しく出かける準備をしている母は三祇郎に
ちらりと笑みを見せると胸のポケットに小さなカードを入れる。

 このカードが母の持つ常識を超えた力なのだということを三祇郎は既に了解していた。
何度か話には聞いたものの具体的にそれがどんな力なのかは知らないのだが、
以前カードを触ろうとしたらそれは凄まじい剣幕で怒られたものだった。
それだけ大切なものであり、何より一歩間違えば危険にもなりかねないものなのだ。
それ以上母に尋ねることはしなかったが三祇郎はそれ以来母の力をそう理解することにした。

「今日は大掃除と学活だけ。世はもうすぐ夏休みだよ?」

かく言う自分もついさっきようやく夏の訪れを実感したのだが、そうとは言わず
三祇郎は鞄を持ったまま家の中に進んで冷蔵庫を開ける。

「あらそう、道理で暑いわけね。(そう)、全部飲んじゃったなら新しいの買って来てね」

2リットルのペットボトルに残った茶を無作法とは知りつつラッパ飲みしていた三祇郎に
そう言って母は尚も準備を続ける。隣の部屋に行ってしまった母に短く答えると
その場に鞄を残し、財布を手にした三祇郎は再び玄関の方へ向かう。
涼しい室内に未練を感じるが、時間が経てば更に離れがたくなる。意を決した彼を
母の声が追いかける。

「お母さんもう仕事に出ちゃうから、鍵は持って出てね」

それにもう一度返事を返し、三祇郎は再び日差し鋭い家の外に出て行った。



 「七神(ななみ)!」

「あ、お兄ちゃん。ずるーい、何か買ったの?」

コンビニを出た所で目の前をよく知った顔が通り過ぎるのを見かけ三祇郎は声を上げた。
七神と呼ばれた少女、三祇郎の妹鈴鹿七神は赤いランドセルを背負い、空色の四角い鉢を
両手に抱えたまま振り返る。

「お茶だけだよ。どうだった学校は?」

双葉になったばかりの朝顔が芽吹く鉢を持ってやりながら三祇郎が尋ねると
七神は空いた手で三祇郎の制服のズボンを掴んで八重歯を覗かせる。

「よっちゃんが怖い話の本持ってきてね、みんなで怖い話した!
ねえねえ、時々いるでしょ?鎖が付いてたりするあれ。あれもお化けなのかな?」

「七神」

無邪気な言葉を遮るように三祇郎は声を低くした。

「家では良いけど、学校とかではあんまりそういう話するんじゃないよ」

「なんで?」

「お化けなんて本当はいないんだよ。あれもお化けじゃない。
七神が大きくなったら見えなくなるよ」

きょとんと見上げてくる七神の視線から三祇郎はばつが悪そうに目を逸らした。
世界を包む結界は、常識を信じる心が作っているのだという。
人々が常識を疑い始めれば結界は弱まり、常識の範疇を外れたもの達が世に溢れ返る。
そうならないためにも一般人が常識を強く信じていることが大切だと母は言っていた。

三祇郎が知りたがればそれにはある程度応じてくれたが、三祇郎より六つ年下の七神には
まだ分別がないと思っているのかそういった話は一切しなかった。
それに三祇郎は合わせる形を取っていたが、腑に落ちない様子の妹を見れば
少なからず良心が痛む。

「えー、お化けじゃないの?お化けじゃないなら何なの?……あ、雨!」

「雨?」

ころころと慌しく表情を変える七神は、首を傾げていた次の瞬間にはもう両手を
天に向かって広げていた。そう言われて初めてあたりがどんよりと曇り始めていることに
気付いた三祇郎は夕立でも降るのかと慌てて自らも天を振り仰ぐ。


 瞬間、息を呑んだ。


「きれい…銀色の雨だよ」


恍惚とした七神のつぶやきは、胸を強く打つ鼓動に掻き消える。
その音は、どこか警鐘に似ていた。






ひとまずここまで。後半は更に陰鬱な感じで進みます(×)