「早く、家に戻ろう…!」

力を込めて七神の手を握ると三祇郎は得体の知れない胸騒ぎに突き動かされるように
足早に家に向かう。どうしたの、と七神が訝しげに尋ねるがそれには答えない。
降り注ぐ銀色の雨はまるで流星のように次から次へと空を滑り、地に届く。
確かに幻想的な光景ではあるが確実に常識の範疇を出たものだ。
常識外のもの達が、それを抑える結界を凌駕した。
それはつまり彼らが世に流れ出てくるということ。

何かが起こるのだ。
三祇郎は確信していた。

扉に手をかけると兄妹は家の中に駆け込む。
何故鍵が開いたままなのか、母はまだ出かけていないのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎった次の瞬間、その答えはすぐに返ってきた。


 壁を、床を、天井を這うツタのような植物。その中心にネコの上半身が
融合したような姿の化け物が居間を占拠している。
そしてそれと対峙するように凛と立つ母の姿があった。

「三祇郎、七神!?」

廊下に立ち尽くした二人を肩越しに振り返り、母は驚いた声音で二人を呼んだ。
その隙を突いて化け物はツタを素早く伸ばしてくるが母はそれに気付いて一刀の下に
ツタを切り落とす。

「早く逃げなさい、出来るだけ遠くに!戻ってきちゃ駄目!」

「母さん、何なんだよ、これ!?」

「いいから!早く!!」

強い口調に怯んだように数歩後ずさると三祇郎は再び七神の手を取った。

「三、七神を守ってあげてね。七神もお兄ちゃんの言うことを聞くのよ。
何かあったらお父さんの所に行きなさい」

「……!」

いつものように優しく笑った母に何かいらえようとしたが唇を噛み締めていたせいで
声にはならない。三祇郎は意を決したように踵を返すと七神の手を引いて走り出した。


 外にはまだ銀色の雨が降っている。大きな通りに面した場所に交番を見つけた三祇郎は
そこに飛び込むと取りすがるように警察官に詰め寄った。

「助けて下さい!家に化け物が!」

「はぁ?」

訴える言葉に警官は眉をひそめるばかりだ。焦れたように三祇郎は言葉を繰り返した。

「家に、化け物がいるんです!助けて下さい!」

「君、何を言ってるんだ。ふざけているならやめなさい」

「違う!本当に…―――」

言いかけた言葉を三祇郎は不意に呑み込んだ。
そう、化け物などがこの世にいるはずがないのだ。少なくとも、常識的には
そういうことになっている。

―――お化けなんて本当はいないんだよ。

七神に向けた言葉が自分にも返ってくる。緩やかに警官の服を掴んでいた手を引くと
三祇郎はきっ、と七神を振り返った。

「七神。お兄ちゃんは大丈夫だから、七神はここにいるんだ。
お巡りさんのそばを離れちゃ駄目だよ」

早口にそう言うと三祇郎は身を翻し走り出す。

「お兄ちゃん、待って!」

「来るな!」

強い口調で追ってくる七神を制して、来た道を引き返す三祇郎。元々人通りの少ない
家の前には特に騒ぎになっている様子はない。しかし家の中からは夏だと言うのに
冷え冷えとした空気が漂ってくる。


 「母さん!」

テーブルの上のペン立てからカッターナイフを掴み上げ、刃を固定しながら三祇郎は
居間に駆け込む。母が驚いたような非難めいたような声を上げるが、三祇郎の視線は
化け物に据えられたまま動かない。

「何やってるの!早く逃げなさい!」

「逃げたって誰も助けちゃくれないだろ?」

裏返りそうな声を抑えるように三祇郎はトーンを落とす。

「こいつの存在に折り合いを付けられるのは母さんと僕くらいしかしない。
だったら他人の助けを当てにするより、自分の力でやれる限りのことをやる」

二人がかりならばあるいは共に逃げることくらいは出来るかもしれない。
そんな期待と過信があったのは確かだ。それでも巨大な化け物を前にすると
胸がすくむような思いがした。しかし化け物はそんなことには頓着してはくれない。
あっという間に三祇郎に迫ってきた無数のツタが彼の右手を捉えた。

腕を捻り上げられる。振り解けないほどに強く巻き付いたツタを見て三祇郎は
そう直感した。慌ててカッターを左手に持ち変え、逆手のまま掻くようにして
そのツタを切り落とすと化け物のツタからは色のない液体が吹き出してきた。
化け物の気が三祇郎に向いている隙に母が一度、二度と化け物を斬りつけるが、
いずれも致命傷ではないらしい。むしろ斬っていくそばからその傷が
癒えていっているようにさえ見える。こんな化け物を果たして倒せるのだろうか。
一瞬揺らいだ気持ちが判断を遅らせた。

「三祇郎!」

注意を促す母の声に、反射的に身を縮めて横に避ける。三祇郎に見えたのは
一閃の白い影だけだったが、それが自分の腕を切り裂いた感覚だけははっきりと
伝わってきた。

驚きや衝撃というものは痛みに大分先行するものらしい。
二の腕からぱっと鮮血が飛び散り、白いシャツに斑の模様が付く様に目を丸くしていた
三祇郎に、ようやく鋭い痛みが追い付いてくる。思わず短く声を上げて血が溢れる腕に
手をやるが、その痛みと赤い色が何かの衝動に火を点けた。
頭で考えるよりも早く三祇郎はネコのもののような鋭利な爪が飛び出た足にカッターを
突き立てた。

引き裂くような化け物の咆哮が響き、多少とも自分の攻撃が効いたらしいと三祇郎が
満足する間もなく彼の身体は化け物が振り払った前足を脇の腹に受け吹き飛ばされた。
壁にぶつかり、物のように床に落ちた三祇郎は痛みに身をよじるばかりで立ち上がる
ことが出来ない。頭を打ったのだろうか、地に伏してもなおひどい目眩がして、
背中全体がぎしぎしと音を立てた。夢中になって忘れていた腕の傷までもが
熱のように存在を主張してくる。立て、と意識だけは体を叱咤するがそれに応える
動きは緩慢で弱々しい。自分の体が思うとおりにならないなどということが
あり得るなんて。しかし悠長に感心している暇は三祇郎にはなかった。


 「おにい…ちゃん…?」

三祇郎は血が溢れ出る身体から更に血の気が引くような思いがした。
耳元に滑り込む声に顔を上げると、七神が居間の入り口で絶望したような顔をしている。
呆然としている彼女に気付いたのは三祇郎だけではなかった。
立ち尽くした七神をいとも容易く捉えた化け物の前足が彼女に振り下ろされようとする。
妹はすぐ目の前にいるのに、立ち上がって駆け寄るにはあまりに時間が足りない。

「七神、下がれ!」

叫ぶと同時に母も七神の前に出て何とか化け物の一撃を受け止めようとする。


 瞬間、母の剣がガラスが割れるように儚く砕け散った。
中空を回転しながらきらきらと落ちていく剣の欠片たちは外に降る銀の雨に
とてもよく似ている。その光の中、化け物の爪は母ごと七神を引き裂いた。

叫びたいのに、声が出ない。
血しぶきを上げ何が起きたのか分からないような面持ちのまま崩れ落ちる七神から
目を離すことが出来ないまま、三祇郎は息を詰まらせた。

ただ居間に倒れる二人にゆるゆると手を伸ばしかけて、その手を何かに取られる。
最後に一人残った三祇郎を葬ろうと、化け物がツタを伸ばしてきたのだ。
されるに任せている彼の首をツタが締め上げ始めると三祇郎の左目が鋭く痛んだ。

母の剣の破片でも入ったのだろうか。ずきずきと疼く目は熱を持っているように熱い。
薄れてくる意識の中で三祇郎がそれでも一度閉じた左目を開こうとした瞬間、
目の前に突然炎が立ち上った。
火が点いたツタが焼け落ちて三祇郎は床の上に放り出される。

久々にたくさんの空気を吸った彼がむせ込んでいる間に化け物は火を消そうとツタを
壁にぶつけたり、前足でツタを踏みつけたりしている。
一体何が起きたのかと三祇郎が猫の顔を見上げると、今度はその顔が何の前触れもなく
燃え上がった。一瞬のうちに火だるまになった化け物はもはや三祇郎のことなど
忘れたように室内をのた打ち回っている。

自分がやったのだろうか。全く実感を伴わない問いを発するが無論応えるものはない。
それでも答えを求めるように三祇郎があたりを見回したその時、自分達以外には
誰もいなかったはずの部屋に誰かがたたずんでいる姿が目に入った。


 「………なな、み…?」
化け物から部屋へと移り燃え盛る炎の中、浮き上がる人影は答えない。
あの姿は確かに妹。しかしあれがすでに妹ではないことも、三祇郎は同時に
悟らざるを得なかった。胸に大きな傷を負った七神は、母の剣の柄を持っている。
その剣が溶け込むように手の中に消えると、彼女はようやく三祇郎に目を向けたようだった。
炎の光が強ければ強いほど、妹の周りには深い影が出来る。
それに遮られて彼女の表情までは読み取れないが、こちらを見ていることは確かなようだ。
しかし七神らしきその姿はつ、とその顔を逸らすと踵を返して逃げるようにその姿を消した。

「七神…!」

三祇郎は影を追おうとするが腰でも抜けたのか立ち上がることが出来ない。
あるいは妹だったものの姿をはっきりとこの目で捉えることを恐れていたのかもしれない。
三祇郎は観念したように両膝をついたままべったりとその場に座り込んだ。
化け物もいつの間にか動くのをやめ床の上でぐずぐずと燃えている。

鼻を突く臭いが、部屋を取り囲む炎が、冷たく横たわる母と血の色が、
ことごとく三祇郎から希望と呼べるものを吸い取っていく。

めまいに身を任せて倒れ込んだ三祇郎の側に、手のひらほどの母の剣の破片が落ちている。
手を伸ばしそれを掴むと彼はそれを離すまいと胸元に抱えるようにし、その代わりに
細く保っていた意識をついに手放した。



 目が覚めると三祇郎は近くの大きな病院にいた。医者と看護師達が慌しく傍にやってきて、
少し遅れて何人かの警察官もやってきた。

話を聞いているうちに、三祇郎は事の顛末を知ることとなった。
結局、この一件は白昼に起きた強盗殺人放火事件ということで世間には受け入れられたらしい。
母は殺され妹は行方不明、立派な凶悪事件だと三祇郎は自虐的に胸中でつぶやいた。
何となく瞑ったままの左目はもう痛まない。


 「近くの派出所の職員が、化け物が、と君が言っていたというようなことを話して
いるんだけれど、そのことについては?」

数日かけてゆっくりとした調子で進む警官からの聞き取りに曖昧に答えていた三祇郎は
はたと沈黙する。沈鬱だった心に、その時一条の明るみが見えた気がした。

「…僕、そんなこと言ってましたか?」

顔を上げ、三祇郎は久しぶりにその双眸で世界を見た。

「覚えてませんけど…多分、気が動転してたんだと思います」

言葉とは裏腹に、その口調ははっきりとしていた。
警官は少し不思議そうな顔をしながらも納得したようだった。


 世界には秘密がある。
その秘密を守ろうとして、たくさんの人が死んだ。
母もきっとその一人だったのだろう。そしてそのことを知ってしまった今、自分は――。

「…それより、妹は…まだ見つかってないんでしょうか」

「ああ、捜索の範囲を広げているけど、まだ…大丈夫、きっと無事だ」

「はい…そう信じてます」

 自分の中で悲しみが何か別のものに変わっていくのを三祇郎は感じていた。
それは希望などではなかったかもしれない。
それでもそれは三祇郎の進むべき道を照らし、三祇郎を強くした。

 七神を探さなくては。探して、見つけ出して、そして――。
血が付いたままの服を返してもらい、そのシャツの胸ポケットに母の剣の欠片を
見つけた時には、三祇郎の心はすでに決まっていた。



 翌日、三祇郎は家から最低限の荷物を持ち出して一人鎌倉に向かう電車に揺られていた。
きっかけは、看護師が持ってきたある話。


 「そういえば…事件を聞いて訪ねていらっしゃった方がいましたよ」

元より大した怪我もなく、院内を歩き回っていた三祇郎に声をかけた看護師は
そう言って大きな封筒を差し出した。学校案内らしいそれを受け取りながら
三祇郎はその表面に印刷された校名を口に出してみる。

「銀誓館…学園…?」

「あなたみたいな事件の遺児への奨学金制度もあるんだとか…」

鎌倉にあるらしいその学校の何が琴線に触れたのかは分からない。ただ、何のことはない
学校案内のパンフレットに三祇郎は何か引っかかるものを感じた。
その違和感の正体を確かめずにいられない、不思議な衝動がそこにはあった。



 電車に乗るのは好きだった。リズミカルな音と振動に身を任せていると気持ちが落ち着く。
三祇郎が呆けたようにここに至るまでの経緯を思い返している間に電車は大分
海に近付いたようだった。そろそろ窓の外に夏の陽光に照らされる海が現われる。
その美しい様を見ようと三祇郎は目を上げて、そして気付く。


 いつからだろう。車内には三祇郎以外には誰もいなくなっていた。









銀雨不参加の方には分かりづらいですが銀誓館には能力者の力を相応しい形に
整える不思議な電車に乗って入学します。詠唱調律電車というんだったか…。
銀誓館の学校案内は詠唱兵器で出来てたりしそうです(?