猫になりたいと思っていた。
 小さい頃からずっと、ずっと、ずっと。


『Want To Be Close』


 曲がり角で待ち伏せていた風が勢いよくぶつかり走り去ってゆく。
落ち着きのない季節になってしまった。ほこりの入った目をしばたかせながら
俺は今や大気に気配を残すだけの冬を恋しく思った。

 家の門を開き、何気なく目を向けたポストにはひと塊何かが入っている。
ダイレクトメール、不動産屋のチラシ、そして父に宛てられた縦長の茶封筒がひとつ。
差出人の名は鈴鹿三祇郎。何と読むのだろう、ずいぶんと古めかしい字面だ。
しかも住所は鎌倉。にわかに俺の頭の中で鎌倉に住む資産家か何かの老人、
鈴鹿三祇郎のイメージが出来上がった。同時に父の交友関係に興味を失し、
俺はポストに入っていたものをまとめて食卓の上に放り出すと食事までの時間を部屋で無為に過ごした。


 夜のことだった。父が自室で声をひそめているのがわかって、俺は思わず足音を消し息を殺した。

「三祇郎から手紙が来たよ」

鎌倉の鈴鹿三祇郎のことだろう。あの名はそうしろう、と読むのか。
妙に感心しながらもやはり古めかしい響きだと思った。

「っていうと、前の奥さんとの……?」

「妹の……七神の遺品が出てきたから、うちの墓に入れさせて欲しいって」

語尾を濁した母に答えた父の声が若干くぐもっていたから、父がうなずいたのであろうことが分かる。

「私としてはぜひそうさせてやりたいと思うんだけど……――」

そこまで聞いたところで、声というより音のような父と母の相談事を置き去りに
俺は自室に上がって行った。

 父は母の再婚相手で、実父が死んだ後、俺が八つの時にやってきた。
再婚するにあたって父の前の家庭については尋ねてはいけないと母に言い含められたのを覚えている。
正直なところ当時の俺にとっても興味のないことだったので、言われたとおり俺は
父の持っていた家庭についてただの一度も尋ねたことはなかった。
だから父に息子がいたことも、その妹が死んでいることも今初めて知った。
今だって十分父の過去に興味はない。しかし、そう思う心の反対側でそれは不思議な輝きを
放っているように感じられて止まない。

「鈴鹿……三祇郎……」

自分の身に刻み付けるように、俺は口の中でその名を呟いた。


 猫になりたいと思っていた。
 雪のように白い猫に。
 そして俺は、その力を手に入れた。


 嫌な時代になったもので、鈴鹿三祇郎がどういう人間なのか、その一端はすぐに知ることが出来た。
二年ほど前にあったある殺人事件。それに彼とその家族は巻き込まれたらしい。
検索に引っかかってきた情報を元に小さな新聞記事を図書館で探し当てた俺は
その顛末に目を落としながら少し眉根が寄った。

 記事によれば白昼住宅街に入り込んだ犯人により家にいた母親が殺された上で
家には火が放たれ、妹――鈴鹿三祇郎の妹は連れ去られたのだという。
遺品がどうこうと父が言っていたから、恐らくこの娘も殺されたのだろう。
犯人が未だ捕まっていないのだから恐ろしい事件ということになるのだろうが、
それにしてはずいぶんと小さく扱われたものだ。俺は記事のコピーを取りながら
第六感めいたものが働くのを感じた。コピーが少し曲がってしまったが気にせず
それをポケットにねじ込むと、俺はその感覚に身を任せるように駅に向かって歩き始めた。


 息を吸い、指を鳴らし、弾みをつけて。
 すると、この身が軽くなる。


 人に尋ね尋ね、その埋もれた記憶を掘り返しながら辿り着いた古い長屋は
じきに取り壊されるとかで入り口を金属の囲いで塞がれていた。
その入り口の脇、古びた塀の上に猫が飛び乗る。真白な毛並みに黒い雪がふたひら散ったその猫は
肩越しに通りを一瞥すると事も無げに閉ざされた敷地の中に入って行く。
この姿になってしまえばどこにいようと何をしようと俺に気を止める人間はいない。
猫から元の姿に戻った俺は悠然と一軒一軒の長屋の玄関を見て回る。
既に表札は取り外されて久しい様子だったが、どれが鈴鹿三祇郎の家かはすぐに分かった。

 死臭のように漂ってくる禍々しい気配。
ゴーストにもなれないだろう、消えてしまいそうながら深い悲しみの感じられたその家は
案の定荒れ果て、柱には大きな切り傷が残り所々に焼け焦げた跡がる。
殺人犯などではない、もっと別の存在と争った形跡だ。そして更に、それらに隠れるように新しい跡がある。
そこでこの事件が世間で忘れ去られているわけ、今になって鈴鹿三祇郎が父に連絡を取ってきたわけ、
それら全てが一つになって、確信になった。


 「お兄ちゃん、おかえり」

日が暮れてから家に戻ると、小学生の妹がぱたぱたと寄ってきた。
妹は母の再婚後の子供だから俺とは九つ年が違う。あどけないばかりの妹にただいま、と答えた俺は、
笑みとは裏腹にひどく心が冷えていた。

 父は今この家庭を、俺達をどう見つめているのだろうか。
父にはかつて母とは違う妻がいて、鈴鹿三祇郎がいて、その妹がいた。
今の父には母がいて、妹がいて、そして俺がいる。
俺達を以って、父は失った全てを回復したのだ。
 その一方で鈴鹿三祇郎は、俺はどうだろうか。
 芽が伸びるように、その時俺の胸で大きくなってきたのは見たこともない鈴鹿三祇郎への親近感。
あるいは互いに親近感を持つだろうという期待だったのだと思う。


 猫になりたいと思っていた。
 小さい頃からずっと、ずっと、ずっと。


 銀誓館学園の校舎には様々な服装の人間がいて、幸いなことに俺の着たかつての学校の制服も
大して目立つものではない。やってきた教室の入り口で適当な人間に声をかけ短く頼むと、
ややあってからその人づてに呼ばれた一人の男が、訝しさを隠す様子もなく
ためらいがちにこちらに歩いてくる。

 「どうも、鈴鹿ですけど……」

やってきた男、鈴鹿三祇郎は俺から視線を外さないまま軽く会釈する。
目が大きくつりがちなところも、割とよく通る声も、正直父とはあまり似ていないと思った。
ただ、人のよさそうな顔つきはあの人を彷彿とさせるだろうか。
古めかしい名前が似合いと不似合いの間で揺れていて妙におかしい。
俺は多分、にっこりと笑って彼の相貌を覗き込み返した。

「初めまして。俺、稲浪螢介っていいます」

それだけで伝わっただろうか、俺の言葉に二度瞬きをした後に鈴鹿三祇郎の口元がぎこちなく動く。
稲浪。声は聞こえてこないがその口はそう形を作っていた。不意討ちは成功したようだ。
俺は多分、まだにっこりと笑っていた。


 そして君に、背後から近付く。